日常〜Kanonより〜


恋情
 あれから、香里は、おれを避けるようになった。
いや、おれだけじゃない。すべてを拒絶するかのように、ほとんど口を開かない。
名雪も、その様子に心を痛めているのは目に見えている。
ここ最近は、夜に香里の携帯に電話し、結局香里は出ない…ということを続けているようだ。
そんな姿を見る度に、おれは余計なことをしたのか、と思ってしまう。
止まった時間を戻させるために、彼女の心を壊してしまったのか…と。
だが、ウジウジと悩むのはおれの性に合わない。
とにかく行動する…この場合は、香里に声をかけることだ…ほうが向いている。
…しかし、何かをしようと思えば思うほど、授業というやつは長く感じられ、おれを苛つかせる。
そして、ようやくHRが終わると、早速行動を開始した。
「香里!」
 彼女の後を追い、大声で声をかける。
何事かと振り向くのはその他大勢のギャラリーばかりで、
当の香里は一瞬だけこちらを見、そのまま行ってしまおうとする。
まあ、こちらも返事が返ってくるとは思っていない。とりあえず、香里の横に並んで歩く。
しかし、いざとなると、言葉が浮かんでこない。
「…名雪が、心配してるぞ」
 必死に話題を探し、出てきた言葉がこれだった。
「…わかってる。だって、毎日電話してくるもの…決まって、11時に」
 それだけでも、名雪が無理をしているのがわかる。
「その時間に、一度だけ出たから…」
「…話くらい、してやれよ」
「そうね…今夜くらいに話してみる」
 やはり、二人は親友なんだな…
とりあえず、これだけでも、今回の行動の価値はあった。
「…もう、いい?」
「えっ。あ、ああ」
 これで、名雪も少しは安心するだろう。
今回はこれで十分と、おれは香里と別れた。
しかし…事態は、思わぬ形で進展を見せた。
携帯が鳴っている。着信…香里?!
「もしもし、相沢です」
 また言ってしまった。電話に出ると、つい「もしもし」と言ってしまう。
もっとユニークな返事を、いつも考えているのだが。
「相沢君?私。香里」
「あ、ああ、わかるぞ。珍しいな、どうした?」
「明日、ヒマ?」
 明日といえば日曜。もちろん予定などはない。
あったとしても、こちらが最優先だろう。
「もちろん、ヒマだぞ」
「…デートの誘いじゃないからね」
 そんな場合ではないと解っているし、おれ自身もそういうつもりはないが、
やはり、こうはっきり言われると、どこか悲しいものがある。
「…無理して言ってないか?」
「どこかで聞いた会話ね」
 しばらく前に、自分達がした会話だ。状況は逆だが。
「…で、どうしたんだ?」
「手伝ってほしいことがあるのよ」
 それから、適当な場所で待ち合わせて、おれは香里について行った。
しばらく会話もなく歩いていると、一軒の家にたどり着いた。
[美坂]
表札には、そう書かれていた。
「おい、香里…ここは…」
「そう、私の家よ」
 ちょっと待て。どうして、香里がおれを家に招く?
頭の中から疑問符が消えないまま、彼女について中へ入る。
「ここよ」
 香里がひとつのドアを開け、中に導く。
…妙に可愛らしく、妙にシンプルな部屋だ。住人の、人となりを窺わせる。
やはり、ここは…
「ここは、あの子…栞の部屋」
 やはり、そうか。
全く生活感を感じさせない部屋。まるで、病室のような。
入退院を繰り返す栞は、この部屋に居て、何を想ったのだろう。
「ここの片付けをするのよ…手伝って」
「って、いいのか?!おれが勝手にいじって…」
「いいのよ。もともと、私の我儘で残っていたようなものだから」
 …墓地での様子を思い出す。あの調子で拒否されたら、誰だって強行はできないだろう。
「どこから、片付けるべきか…」
 香里の呟きは、彼女の本心を表しているように聴こえる。
どこから手を付けていいか判らないのではなく、
どこから片付けてもつらい思い出が甦るだけだという悲鳴が。
おれが決めてしまうのが、一番いいのかもしれない。
「とりあえず、ぬいぐるみとか小物とか…ひとまとめにしようぜ」
 そう提案すると、返事をするわけでもなく、香里は動き出した。
部屋の片隅に積んであるダンボール箱に、ぬいぐるみやら何やらを乱雑に放り込む。
かと思えば、クローゼットの中の衣服などは、丁寧すぎるくらいに畳んでしまいこむ。
情緒不安定なのかもしれない。
…そうこうしているうちに、残るは大きな家具だけになってしまった。
もともと、ものが少なかったためか、あっと言う間だった。
「…皮肉よね」
 香里が、ベッドの傍らに佇み、見下ろしながらそう言った。
「あの子がこの家にいて、一番長く時間を過ごしたのは、このベッドの上なんだもの」
 それのどこが「皮肉」なのかは解らなかったが、香里の表情には自嘲めいた、悲しげな微笑みが浮かんでいた。
そして、ゆっくりとシーツを撫でる。
そのままベッドに腰掛け、寂しげに枕元を眺めていた。
もし、そこに栞が寝ていたら、顔を覗き込むようにしているはずだ。
もしかしたら、二人は、いつもそうしていたのかもしれない。
「ねえ、相沢君」
「…なんだ?」
「あの子…何のために生まれてきたと思う?」
「…幸せになるためだ」
 あの時言えなかった言葉が、今はすっと口に出た。
「…幸せだったと思う?」
「…だったと…思う」
 口の中が渇いていく。おれは、本当に栞を幸せにすることができていたのだろうか?
「…相沢君…あなたは、あの子を幸せにできた自信がある?」
 とことん直球で、突き詰めてくる…おれの、一番聞かれたくない、怖れていることを。
「…わからない…できたと思う。少なくとも、そう信じる」
 嘘偽りなく、そう思う。
そうでなければ、あまりにもやるせないじゃないか。
「そう…あの子は、幸せだったのね…」
 それっきり、香里は、俯いたまま何も話さなくなってしまった。
時間だけが過ぎていく。空は、すっかり茜色にそまっている。
「…香里」
 ゆっくりと彼女に近寄り、肩に手を置いた。
……!!
何が起きたか解らなかった。
しばらく茫然としていると、香里が腕の力を緩め、おれを解放した。
温かくて、柔らかい感触。
冷静に分析すると…
突然、香里がおれの首に腕を絡め、引き寄せた。
そして、そのまま唇が触れ合い、茫然としている間に舌が口の中に侵入してきて…
などと考え、分析している間に、今度は視界が反転する。
天井が見える。下には、柔らかいベッドの感触。
そこへ覆い被さるようにして、香里がおれの顔を覗き込んでくる。
「香里…自分が何をしてるか…解ってるのか…?」
 かすれた声でそう言うのが精一杯だった。
「私は…」
香里は泣いていた。
あの時と同じ表情で。栞が死ぬ前に、おれを電話で呼び出した時と。
「あたしは、幸せになんてなれない…あの子がいないと、幸せになんてなれない!」
「……」
「でも、あの子がいたら、あたしは幸せにはなれない…」
 わけがわからない。
言っていることが矛盾している。
「あたしは、あの子の持っているはずのものをすべて奪ってしまった…
 ずっとそんな気がしていた。あの子が実際にそう思っていることも知っていた。
 だけど、あの子が、そう思ってあたしを責めたとしても、
 それであの子のつらい思いが楽になるなら、それでいいと思ってた」
 そう一気に言うと、香里は黙ってしまった。
しかし、おれはなんと言えばいいのか。
「だけど…最後の最後で、
 あの子は、あたしの一番欲しかったものを持っていってしまった…」
「香里…?」
「あなたの心を、愛を、あの子は持っていってしまった…
 それを見ていて、あたしは、嬉しかった。でも、大切なものを奪われてしまったような気がして…」
 その告白を聴いた瞬間、おれは何も考えられなくなった。 
妹に嫉妬した。あの子を憎んだ。
自分の想像が正しいなら、そんな言葉が続くはずだから。
「妹の恋人を奪おうとする、汚い女。
 そうなってしまいたかった…」
 そう言って、香里は笑った。
泣き笑いとは、こういうものなのか。狂気をはらんだ、薄ら寒い笑み。
自分で汚い女だと、そうなれなかったと言った彼女は、
そうなりきるのには、あまりに高潔で潔癖すぎたのか。


日常


あの日から、もう半年が過ぎた。
夏の暑さが過ぎ、秋の物憂げな雰囲気も去ろうとしている。
また、雪の季節がやってくるのだ。
あれからも、おれたちは何も変わらぬ日々をすごしている。
簡単にはいかなかったが、おれは努めて変わらぬ関係を保とうと接した。
あの後、香里はこう語った。
「悲しみを誰かと…ううん、相沢君と分かち合いたくて。
 そうすることで、心がひとつになっているような気がしていたの。
 でも、自分のためにあの子の死を踏み台にしているようで。 それがたまらなく汚らわしく感じた。
 あの場所で…妹の部屋であなたを犯して、身も心も汚れきってしまえば、こんな自分を正当化できそうで。
 あたしは、嫌な女なんだと」
 そう言っていたが、彼女は、自分の罪悪感に耐えられなかったんだろう。
結局は未遂に終わり、おれたちはそのまま別れた。あれからも、おれたちは二人でいることが多い。
栞の時といい、今といい、もしかしたら、おれは保護欲が強いのかもしれない。
あの時は栞の儚さに惹かれ、今は香里の危うさを放っておけない。
周囲は、おれを不義の輩だと言うだろうか?香里は、言うんだろうな。
「栞を愛しておいて、次はあたしを?」
 そう言って、非難の目を向けるに違いない。
もっとも、この日常が香里への愛に変わるかは自分でもわからない。
ただ、今は彼女の傍にいたいと思っている。この日常を、いつか本物にするために。

せめて、香里が自分の足で歩き始めるまで。

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