日常〜Kanonより〜


奇跡は起きなかった
「奇跡は、起きないから奇跡っていうんですよ」
「私、笑っていられましたか?」
 今でも、心に焼き付いている。最期の時まで、笑みを絶やさなかった少女。
…あれから時が過ぎ、おれたちは、三年に進級していた。
おれの中で、世界が止まってしまったあの瞬間から、時間だけが流れている。
しかし、今、おれの隣を歩いている少女の世界は、さらに深刻に、時すら刻んでいない。
「祐一〜、なんで無視するの〜」
 …さっきから、名雪が何やら話していた気がする。
「聴いてる〜?」
「ああ、聴いてるぞ。確か、巨大けろぴーが暴れまわる夢だったっけ?」
「夢しか合ってないよ」
「じゃあ、え〜と、深夜まで起きていられた夢だっけ?」
「祐一、なにげにひどいこと言うね」
 …この二人は、いつまでボケとボケを繰り返すつもりなんだろう…
繰り返す…
同じ時をずっと…
あの子がいても…いなくても…
日常は繰り返される…
なぜ、世界は止まらなかったのだろう。
一時、あの子が元気なままで。
「だから、違うってば。そろそろ、聴いてなかったと認めてもいいんじゃないかな」
 …二人は、まだ続けている。
「はいはい。ほら、始業のベルは、待っててくれないわよ」
「あっ、やっべー!名雪、走るぞ!」
「ゆ、祐一、急に走り出さないでよ〜」
 …ふう。走らなくても、間に合うのに…あの二人ときたら。
「う〜、痛い〜」
 名雪が、つまづいて転んだらしい。
そんなに、急いで走るから…
急いだって、いいことなんか、一つもないのに…
「大丈夫?」
「うん、平気だよ。行こう」
 それでも、そうすることが楽しいのか、二人は駆け足で学校に向かっていき、私も後を追いかけた。
 …昼休み。
最近、私は、名雪でなく、相沢君と昼食を摂るようになった。
どちらともなく、示し合わせたように始まったことだ。
…交わす言葉は少ない。
「今日は少し暑いし、アイスでも買ってくるか」
 突然、彼が切り出した。
まだ春とはいえ、初夏も近い、日差しの良い午後。少し早いが、それもいいかもしれない。
「じゃあ、お願いね」
 やんわりと、「買って来て」と要求する。
「はいはい。何買ってきても、文句言うなよ」
 彼の姿が消えると、途端に、可笑しさがこみ上げてきた。
自分で、自分に嘘をつくことに。
何のことはない。二人して、あの子の幻影を追っているだけだ。
彼も、あんなことを言っておいて、買ってくる物は決まっているのだ。
…一人になると、つい、あの子のことを考えてしまう。
軽く頭を振って、その考えを外に追い出そうとする。
…無理だ。たった数ヶ月で、肉親のことを、忘れられるはずがない。
大切な、誰よりも愛しかった妹では、なおさらだ。
「買ってきたぞ」
 うつむいて、目の前の影にすら気付かなかったらしい私に、焦れたような声が降ってきた。
「…遅いわ」
「ひとに行かせておいていきなりそれか」
「冗談よ」
 時計の針は、ほとんど動いていない。急いで来たのだろう。
「ほい」
 何気なく差し出され、彼も持っているのは、やはり、バニラアイスだった。
「ありがと」
 受け取って、蓋を開ける。
…そう。
私達は、こうして、二人でいては、傷口を広げあっている。
広がった傷口から、どくどくと、心の中で、血が流れ出す。
そういえば、流行歌に、こんなフレーズがあった。
凛とした痛み胸に 留まり続ける限り
あなたを忘れずにいられるでしょう
もとは恋愛のものだけど、今の私達には、ピッタリの詞かもしれない…


自虐


 私は今日も、相沢君と一緒にいる。
いつまでこんな状態が続くのだろうかと自問するが、明確な答えは得られなかった。
二人で無言のまま時を過ごしていると、何を考えたのか、あの子の話を切り出してきた。
「…栞、強かったな」
 なぜ、突然、そんなことを言ったのかは解らない。
ただ、普段は見せない、彼の自嘲の笑みが焼きついて離れない。
彼は、あんな表情を見せる人だったか。
ピロリロ〜♪
携帯が鳴っている。
妙に明るい曲が、私の心を渇かせる。
「…もしもし」
 …なぜ、日本人は、電話に出ると、こう言ってしまうのだろう?
そんな、くだらない疑問が頭の中で渦巻く。
「よう、香里」
「…切るわ」
「ち、ちょっと待て。せめて、用件くらい聞いてくれ」
 別に、本気で切ろうと思ったわけじゃない。ただなんとなく、冗談を言ってみたくなっただけ。
なのに、相沢君ときたら、本気で焦っている。ちょっとだけ口元が緩んだ。
「それで、突然どうしたの?」
「明日、ヒマか?」
 …明日は土曜。休日だ。
確かに予定は何もないが、進んで休日を一緒に過ごしたい相手ではない。
傷を開き続けるのは、痛みを伴う。自ら望んでそうしていることでも、やはりつらい。
「…デートなら、お断りよ」
「…無理して言ってないか?」
 彼は時々、妙に鋭い。それを失念していた。
「行きたい場所があるんだ。一緒に来て欲しい」
 …なぜ、来てしまったのだろう。
断ってしまっても、良かったのに。
そもそも約束などしなかったはずだ。
彼は、待ち合わせ場所と時間だけを一方的に告げると、返事も聞かずに電話を切ってしまった。
それなのに、あたしは待ち合わせの場所に赴き、今、二人で電車に揺られている。
さしたる会話もなく、「降りよう」と言う彼についていく。
それから、バスに揺られること20分。私の、悪い予感は見事に的中した。
「…私、帰るから」
 ふいと背を向けて、歩き出す。早く、この場から離れたい。どうして、ここまでついて来てしまったのか。
行き先に気付く要素は、いくつもあったはずだ。
何かを決意したような彼の表情。降りる駅。バスの路線。彼のバッグから漂う、むせ返るような花の匂い。
「待てよ」
 相沢君が、私の腕を強く掴んで引っ張る。
「嫌よ…絶対に行かない!」
「香里!いいかげん、認めろよ!栞はもう、いないんだ!」
「嫌!見たくない!聴きたくない!」
 必死に抵抗するが本気の男の力にかなうはずもなく、半ば引き摺られる形で、私はそこに立っていた。
--美坂家之墓--
そう、あの子の…眠る場所だ。
「栞…遅くなってゴメン。でも…やっと、おれ…前に進めそうだ」
 手に持っていた大きめのバッグから花と線香を取り出し、彼はそう言った。
‘前に進む’それは、あの子のことを思い出にしてしまうということだろうか。
「香里…」
 花を一房差し出し、無理やり私に握らせた。
私に、この花を供えろというの?
あの子がもういないことを、再び噛み締めろというの?
私が立ち尽くしていると、彼はもう、なにやら呟き席を立った。
そして、やんわりと、私の背を押す。
力はこもっていなかったが、拒否を許さない断固としたものだった。
「さあ…栞に、何か声をかけてやれよ」
 頭が、ぐらぐらする。何も考えられない。
それでも、ふらふらと花を供え、その墓前に立つ。
…ああ、ここにあの子が眠っているんだ。ゆっくり座り込んで、形だけ手を合わせる。
「香里、栞の名前を呼んでやれよ。大好きな、妹なんだろ?」
「……」
 喉まで出掛かった言葉が、つかえて出てこない。声が出せない。ただ、無意味に口をぱくぱくさせるだけだ。
引き攣った表情でそれを繰り返すあたしは、今にも呼吸困難で死にそうな人間に見えるかもしれない。
「笑ってやれよ。栞は、最期まで笑っていたじゃないか」
「…おり…」
 今の私の笑顔は、きっと歪んでいるだろう。声も掠れている。
…温かい手が、私の肩に乗せられる。相沢君の手だ。ほんの少しだけ、意識がはっきりする。
「…しおり…」
「----栞!」
「うわあああ……!」
 …何も考えられなかった。
それでも、墓に取りすがって泣きじゃくる香里。
「どうして…どうして…!」
 祐一は、その姿を、ずっと、優しく見守っていた…
 私は今、泣き腫らした真っ赤な目をしているに違いない。
それでも、すべてを吹っ切れた。
今まで、ずっと止まっていた…否、認めたくなくて、自ら止めていた時間が流れ出す。
私は、これからを、ずっと前を見て歩かなければならない。
ずっと前だけを見ていた、栞のように…
 …私たちは、手洗い場で、手と…私は顔も…洗っていた。
「ところで香里」
 呼ばれて、私は相沢君を見た。
その瞬間、全身に電撃と苦痛が走る。
…ドウシテ、ワタシタチハ、イッショニイタノ…?
すべてを吹っ切り、気持ちの整理のついた今、あらゆる答えが氷解した。
…馬鹿な。
それじゃあ、私は。
栞が生きていた時のことを思い出す。
あの時の私は、栞にどんな感情を抱いていたのか。
耐え切れなくなって、私は、その場で嘔吐した。
「か、香里?!」
 突然、香里は嘔吐を始めた。
何度も何度も嘔吐を繰り返し、空っぽの胃からは、もう胃液しか出てこない。
それでも、彼女は吐き続けた。
おれは、余計なことをしたのだろうか。まだ、彼女には早過ぎたのだろうか。
「げえっ、げっ…」
 香里は、まだ吐き続けている。おれには、その背中を擦ってやるくらいしかできない。
やがて、香里は落ち着きを取り戻し、荒い息も静まってきた。
「香里…大丈夫か?」
「…ええ…今日はもう、帰るわね」
「そうだな」
「…一人で帰るから」
 そう言うと、香里は、おれに背を向けて行ってしまった…


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